俺とお前は同期の桜

東京の桜に引き続いて、ではないかもしれませんが京都もようやく春らしい気候になりました。週末は仕事で東京出張があり、仕事の後に前職の同期と再開して飲みました。毎年フジに一緒に遊びにいっている悪友達です。最近の酒量から考えると、比較的飲んだ部類に入ると思うのですが、最近のパターンで多い、深酒から次の日自己嫌悪に陥るパターンにもならず、ほんまに気負いなく飲めました。もう既に前職にとどまっているのは一人だけなのですが、損得や、下手な自己顕示も必要なく、今の各々の状況を話し、そして笑って飲めるというのが「同期」ということなんかなぁ、とぼんやり帰りの新幹線で考えていました。

その中での印象深かった話。仕事でも音楽でも絵画でも小説でも恋愛でも人間関係でも、何でも良いのですが、人が楽しい、幸せだと思うのは何がしか自分からの「表現」を行った時、そしてそれが認められた時では無いか、というような話題がのぼったときのこと。そして「表現」についての話をしていたときに、その同期の一人が「芸術とは論理を超えて人の心に届くもの」という、誰かの言葉を引用してきました。

今は営業をしている友人なのですが、「あー、人の心をつかむためにこういうことも考えているんだ」と妙な感心をしました。彼曰く(多分物を売るという)ゴールに到達する、という目的は一緒なんだけれども、論理を積み重ねていくアプローチとは別に、そういう「心に直接訴えかける」という事も同時に考えて、プレゼンなどをしている、ということに不思議な得心がありました。

コミュニティエンジンの中嶋さんがhttp://www.ce-lab.net/ringo/archives/2007/03/16/index.htmlというエントリで、情報が足りない時に「好み」というデフォルト値がある、という事を書かれていて、これは技術者としては自戒の意味も含んで、非常にインパクトがあったのですが、それとは別に「物を売る」という活動の中で、その「好み」自身を作り出す事の重要性を見出しているのは、まさに「己」自身のブランディングかと。全ての物事、判断の際に、中嶋さんのおっしゃるように十分な情報がその時点で与えられているケースばかりではないでしょうから。勿論、自分としては、そういった際に十分な情報を得ていないこと位は認識しておきたいものですが。

ま、といっても、そんな話よりは、どちらかというとアホな話ばかりしてました。