個人の"責任"

最近諸々の理由があって、個人の生き方であるとか、組織であるとかに関わる読書をよくしているように思います。例えばローマ人の物語〈31〉終わりの始まり〈下〉 (新潮文庫)であったり、ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則であったり、シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土 (ちくま文庫)であったり・・・。(王道ばかりかもしれませんが)

その中にビジョナリー・ピープルがあるのですが、この中ではっとした内容を一つ。

自分の身に起こったことで自分が責められることもあれば、責められないこともある。けれども、そのどちらであっても、そこに関わっていることについては責任がある、ということだ。

最近、従業員満足や、モチベーションコントロールといった、企業が従業員に対してどのような仕組み作りをしているのか、という議論を目にすることがよくあります。企業がこういう意識を持つ事は、ある規模感を超えた組織では大事な事だとは思っています。私自身は起業や経営に関する才や志向は無いと思っていますので、おそらく仕事をしている間は「従業員」という立場である事のほうが、この先の人生では高い割合を占めると思う、というところもありますので。

ただ、個人の視点からみると、どれだけ組織体として未成熟な部分があろうとも、それにどんな不満を感じようとも、「その組織に自分が属す」という選択を行った事自体は、その個人の"責任"の範疇である、ということ。組織には「属してみないと分からない」ということは多々ありますが、少なくともそこに属すという判断を下したという事実自体にはその人の責任の範疇である、と。となると、その組織に不満があるのであれば、自分が出て行くという選択肢もあるし(強者の論理の気配はありますが)、逆にそこに居続けるのであれば、そこに対して如何に居心地を良くするような取り組みにむかえるか、という方向で考える方がより建設的ではないか、という考え方もあるように思います。

勿論、これはある意味、美しすぎる正論で、そうはいってもなかなか自分自身のモチベーションをコントロールするのは難しいし、そこまで強くはなかなかなれない、というのも事実です。ただ、そう思いつつ、ふと、私の相方の好きな詩である「自分の感受性くらい」が合わせて心に浮かび上がってきました。

ぱさぱさに乾いていく心を
ひとのせいにはするな
自ら水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心が消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
 
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ 

そんな夜更けです。