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フューチャリスト宣言

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

先日読んだ「脳と仮想」の茂木健一郎さんと梅田さんの対談本。考えさせられた事を数点メモ。

  • 「システムの一人勝ち」状態について

コンテンツを作成する側はそれこそ一球入魂で作成しているのに対し、受容する側はただそれを大量にあるコンテンツの中のワンノブゼムとして「消費」し、結果としては基盤を提供しているシステムのみが賢くなっていく、そんな文脈で語られていた話です。一昔前はそれこそ、コンテンツを世に「発信」する事自体がそれなりにハードルの高い事であった訳ですが、今は「発信」自体のコストが激減し、それにより受容者側で受け取る情報量も激増した、その結果一つ一つのコンテンツの「消費」度合は高まった、と。

確かに一冊の本や雑誌をそれこそボロボロになるまで読んだり、というのは自分でもなくなりつつあるように思います。そういう意味で、情報に対する自分の向かい方が変質しているのは感じます。ですが、そもそも「コンテンツ」というもの自体、昔から「消費」されてきた、という事実自体はさほど変わらないのではないでしょうか、と。小説にせよ、音楽にせよ、映画にせよ、それこそ思索にせよ。ただその中で優れたものが、後世に語り継がれ、生き残っていく、その構図は少なくとも私の短い人生においては変化していないように思います。

梅田さんや茂木さんがどういうニュアンスで「システムの一人勝ち」という話をしていたのかまで行間読み切れていないのですが、「消費」度合が変わった事をもってこのように表現しているのであれば納得いくのですが、うがった見方で、コンテンツが「消費」される事実そのもに対しての表現であった場合、このウェブという媒体を使わなくともコンテンツを発信できる術を持つ人の「強者の論理」にも読み取れてしまうように思います。(勿論そこに行くまでに、大変な道程を歩まれたからこそ、というのがあっての事だろうとは思いますし、相当の思索をかけて発信している、という事もあるのだとは思いますが。)そういう意味での梅田さんの、発信の術を持たなかった人にとってそれを「もつ」か「もたない」かは大変な違い、という意見にはおおいに賛成です。

この一連のやりとりにおいては、Google が賢くなっているというのには異論なく、RSS リーダやその他の周辺技術もあいまって、「コンテンツ」と受容者の距離が縮まったというのは確かかな、とは思いました。

  • 楽しくてしょうがないという人しか勝てない

はっきりいって悩ましい所ですね。人は養老毅さんが「バカの壁」でも書かれていたように常々「変化」するものです。極論で言うと「今」楽しいものが、いつまでも楽しいとは限らない。その中で自分が技術者として、一体どこまでいけるのか、というのは前職から通して考え続けていることです。

ただ、「勝つ」「勝たない」という表現については、私は人それぞれの「勝つ」があるとも思っています。言い換えるとどのように「幸せに生きるか」。id:masataka_k さんが、OOエンジニアの輪! 〜 第 37 回 栗原傑享さんの巻 〜 | オブジェクトの広場 で語られているように、人にはそれぞれのレーダーチャートがあるんだと、その中で自分の得意なことを見つけて、そして幸せに生きるというのは、社会の中で相対的に評価されようがされまいが、関係ないように思うのです。というか、思いたい、という願望かもしれませんが (^^;。

多分そういう事は十二分に分かっている上で、極端な二元論でアジテートしているのでしょうけれども。

  • ギャップイヤー

あぁ、こういうのは素敵だな、と。あ、それはただの逃避か・・・。

誤解を恐れずに書くと、自分にとって「未踏」は無職の状態でコードを書くことに専念出来た良い「ギャップイヤー」だったのかもしれません。